Review




 ゴージャスな予告編と、冒頭のショットで、久々に“これから恐ろしいことが起きる”と身構えていた日本映画だったが―つくり手が人間に優しすぎたのか、ある危惧は初見、観終わって残った。この映画自体が―この映画に流れる豊穣な時間、山と積まれた本や美術同様、審美的な美術品としてまるっと愛でられはしないか、と。それのなにが悪いのか、そのこと自体が世の中にとって価値があるのかもしれないが、そういったことに自分はいまは、映画の場で批判的な立場でありたいだけだ。

 ただそうした柔らかな印象のなかでも“恐ろしいこと”の予感は、一縷の線となって確かに目の前に焼き付けられた。「移動」だ。家屋の縁側でギターを弾いていた音楽家が、山に移り、トンネルに移った瞬間に、幽霊のように存在がかき消えたように、この映画の人間達は―次の瞬間には、壁のなかにまるっきり消えていることが往々にしてある(全くかき消えない外国人の作家が手に取る写真集は、石内都の「ひろしま」だ)。 
 元々確かな主人公といえば、冒頭からトンネルに鳴り響く、あのギターの音だけだった。あの音は人間が弾いていようが、違うなにものが鳴らしていたものであったかは、恐らくこの映画では重要ではない。
 画家は描いていた絵をあっという間に黒く塗りつぶし、消すことも重要な作業であるという友人の言葉を受け入れる。詩人の書いた言葉は、廃墟に無残に同一化する。彼ら3人の交感が最高に発熱するのは、焚き火が燃え上がり―崩れ落ちていくさまに、人間と社会を重ねるときである。

 この映画の真に不気味なところは、まるであの山がいまから100年以上経ち、人間が住めなくなった山のようであり、彼らはどこかしら「かつて、いた」という存在の耐えられない軽さ、を浮遊しているように見えることである。これは不思議なことだ。アントニオーニ『欲望』のように主人公がふっと消えるわけでもなく、黒沢清『大いなる幻影』のように明滅する瞬間も訪れないのに、彼らはどこかしら、目の前にいるが、消えている。
 女性の生々しい素脚が映画を横溢させ、3人の男たちの―魂が半分肉体から抜け出たありようと明確に存在感を分けるが、彼女達は決まって向こう側に歩いていく。
 これは「大移動」なのだ。人間が違う惑星にいくか―なにかの予兆のような、過渡期の「大移動」。
 そして脈絡無くこんな詩を思い出した―「山は死ぬか、海は死ぬのか、どこからが私なのか。この世界のあらゆるものは、なにひとつとしてそれだけで孤立しているものはない」という仏陀の教えを、『防人の詩』で戦死者に捧げたさだまさしと、「自分の親だけは死なないと思っていた」と実父の死につないだ清春。

 では波田野州平という映画監督は、何に拠るべくして―山の向こう側に消えていく人間の背中を描いたのか。そこが同世代のものとしても我が事ながら、最後まで残った問いだった。

木村文洋(映画監督/『へばの』『愛のゆくえ(仮)』『息衝く』

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『映画が鳴っている』

男3人の旅が話の軸ではあるのだが、起承転結で表すことは難しい。なんと表現すればいいのだろうか。かき氷みたいに淡くて繊細な、夢のように不条理な、静かで詩的でリズムにのった、キッチュなコメディみたいに可笑しい、民話のように不思議な、、
言葉を繋げば繋ぐほどこの映画を言い表すのに不足を感じる。たしかに、繊細で不条理で詩的で可笑しくて不思議だと思ったはずなのに。たぶん、言葉の映画ではないのだ。もっと言葉の外側にある入り交じったなにか。

ぼくらが普段見慣れている映画には言葉で説明できる物語がある。「地球に隕石が降ってきてやばいので男たちがロケットにのって勇猛果敢に闘ってなんとかする話」とか。ショットとシーン、音楽は一つのストーリーをドラマチックに語るのために編集されて構成される。服の縫い目をわざわざ見せないように、それらは気付かれないようになっているけれども、パーツごとに物語という目的に沿った役割を負っている。それらは例えば、スピード感、笑い、恐怖、感涙などを演出しながら、物語を進めていく。(もちろん普段のぼくらは服を分解することもなければ、映画をパーツに切り分けることもしないのだけれども。)
一方で、『TRAIL』は部分に分けて語ることが難しい。それは音楽をいくら言葉で説明しても伝わらないあの感覚に似て、全体が絡み合ってひとつの感覚を作り上げている。全編を通して気持ちのいい音楽を聞いているような感覚だった。面白いのは、作品を反芻するたびに思い出すシーンが違うことだ。ふと気に入った曲を口ずさむだびに、歌うフレーズが違うように。

こんな言い方をすると、この映画を「物語映画」から切り分けていると思われるかもしれないけど、ぼくはそんなジャンル分けに大した意味はないと思っている。なぜならば『TRAIL』はそれでしか成し得ない映画体験だからだ。そしてこの映画が引き出す、一つの映画に「そのもの」として向き合う姿勢は、ぼくらの欲求さえもジャンル分けする商業映画への確かなカウンターとなるはずだ。

いしだだいすけ(インディペンデント・キュレーター)


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『到底許されない、時代の流れに逆らった映画』

少々暴力的に言えば、今、デジタル技術の進歩により、実は自主映画も商業映画もある一つの方向に向かおうとしている。何かがやりやすくなり、コンパクトになった事で起きている現象である。

それはどんな事でわかるかと言えば、自主映画も、商業映画も、トンデモない駄作が減った、という事に現れている。だが、本作はその流れに、大きく逆らっている。言い方を変えれば、自分たちを映画通だと思っているただのアーカイブ人間たちから、0点や星一つという酷評をうけるリスクを取った作品だからだ。もっといえば、この映画は、日本人が捨てたい、いわゆる日本人の不自然な悪い癖がすべて詰まっている。アンチエスタブリッシュメント映画だと思う。

本作の表面上の売りは、鳥取の大自然の中で、三人の役者としては素人の、だが本物の芸術家を起用しているところだろう。だが、彼らの見せる表情は、日本人が見たくない、日本人の不自然な(西洋的ではない、アジア、中国的でもない)自然の姿だ。ある人は映画でわざわざそのような状況を見たくはない、時間の無駄だ、というかも知れない。だが、それらが、商業映画では絶対不可能な驚くべき雲待ちショットや、地元の僅かの人間にしか見られたことが無かったであろう森の中で銃撃戦のように光る蛍の光や、汚い川の濁流、荒廃した町の風景、そしてその彼らの作った芸術作品、音楽などを取り巻く高度な演出によって明らかに一つの方向が見えてくる。

自主映画であると言う事もこの映画のダサさを強調するかもしれない。だが、そのダサさを知れば知るほど、そこにしか今の私たちには答えがないということも見えてくる。和語を生み出して以来、恥の中に美を探してきた日本人の、その大きな流れ、例えば源氏物語などのような流れの中にある作品だと言える。
これらの事を、わざとやる、という手法に敬意を感じる。
評価としては「サウダーヂ」級の評価をしている。


澤田サンダー(映画監督)


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『あそび、さまよう魂、自然に還る』


波田野州平の初めての長編映画『TRAIL』を観ながら、とりとめもなく頭に浮かんできたのは、40年以上前の中学生時代、苦手だった数学の時間の、なぜかこれだけはよく覚えているの定義-。

線について。
線というものは、どんなに細いペンで描いたつもりでも、そこには面積が存在する。それは線ではない。重なった2枚の紙を少しずらしてみた時の、その境界、面積を持たないその境界こそが線なのだ、と。

無味乾燥に思っていた数学に、思いがけず哲学的な深みをかいま見た瞬間だった。

いやまて、瞬間?
時間とはなんだろう。瞬間の積み重ねか?永遠の一部分か?
カメラで撮影した写真を、一瞬を切り取った、などと私たちは言う。しかしそれは正確ではない。そこには、60分の1秒であれ、2000分の1秒であれ、露光時間という、きわめて短い時間が存在する。どんなに速いシャッタースピードで撮っても、写真とは、一瞬に限りなく近づきながら、一瞬にはなり得ないのだ。

音楽のリズム。
4ビート、8ビート、16ビートと、身体の欲望にあわせて、どんどん速くなるリズム。それとは逆に、宇宙の誕生から消滅までの、途方もない時間をかけても収まりきらない、息の長い一拍というものもあるのではないか。
たとえば武満徹の音楽を聴くと、そういう境地に誘われる。

「生きている時間と死んでいる時間の長さは、実は同じなんだ。死んでごらん、よくわかる。」寺山修司

一瞬と永遠とは、同じ長さなのかもしれない。

『TRAIL』に登場する3人は、実はもう死んでいるのではないか?
あの長い長い焚き火のシーンは、この世とあの世をつなぐ迎え火であり、送り火なのだ。
彼らは、自分たちがどこから来たのかもわからず、どこへ行くのかもわからず、そもそも自分たちが何者かもわからず、名残り惜しげに、その場を離れることができない。
彼らは、すでに自然の一部になっているのだ。

3人とトキちゃんが、世界からいなくなると、どこからか外国人がやってきて、トキちゃんそっくりのホテルウーマンと、惹かれあう。
お帰りなさい。ようこそこの世へ、この町へ。

この映画は、はっきりとした構成・台本があるのではなく、毎朝のミーティング、監督の直観で撮影が進められたと聞く。

それは間違いなく、あの3人(すなわち自然)に、導かれてのことだろう。

水野耕一(よなご映像フェスティバル実行委員)

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波田野州平作品は久しぶりだが、劇と写実(ドキュメント)のあわいを、ゆるゆると、夢かうつつと、まどろむように時間が経過していく。息を呑むような、一種、耽美的な画面が続くが、といって(神経質な)映像主義とは一線を画していると思われた。


類例の映画として、例えばミケランジェロ・フランマルティーノ『四つのいのち』のような宇宙生命秩序に導かれる物語であり、同じミケランジェロでもアントニオーニの方の人間と空間との無機的ないし有機的な関係性も連想させ、また、アンゲロプロス映画の非情でもあり天恵でもあるような「風景」とも類縁がありそうである。


激評家:浦崎浩實(映画芸術442号「2012日本映画ベストテン&ワーストテン」にて10点満点獲得)


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波田野州平監督の初の長編映画『TRAIL』。お披露目上映会ということで、波田野監督が上映前のトークで軽く説明していた。年寄りの私の耳に聞こえたのは「・・・まあ、何かの後に残っていくもの、考えたり、やったり、その後に・・・」。つまり事前に台本を完璧に書き上げ練った作品ではなく、 自らの感性を主軸に、鳥取県の界わいを巡り、民話や自然に触れながら作り上げたもの。


あらすじとして述べるなら、クモの民話に犯された絵描き、詩人、ギター弾きの3人が行く所々、絵を描き、詩を描き、曲を奏でる。山の端を行く白い雲。抜けるような空にせみ時雨。山並みの奥の深い森。そういえばこの一年、こうした画面をテレビで見ても、そのほとんどが過去を語る素材であったが、ふと脳裏をよぎる。忘れていたのだ。
突如、青い青い淵に真っ赤な衣の女が泳ぐ。やがて屏風のように切り立った岩の間に溶けて姿を消す。隧道の中でのギターの音。真っ暗な中での天を焦がすようなたき火。語りらしき語りもない。どうでもよくなるほどのたき火の音がハジケル。そしてラストは古代にさかのぼることを許さない何かに、人間は滅びる予感に終わる。

俗人の私は3月11日以降の何かがどんな形で・・・と不安でもあったが、それは見事にはぐらかされた。存分に古代にさかのぼるかに、荒々しい自然を無防備に幼げに扱いながら見るものの心の裏をそっと慰めてくれるのだ。人間は太古にさかのぼるしかない。けれど無理だ、ということを・・・

この人たちが商業ベースに乗らないで、またテレビにはない映像作家として作品が作り続けられることを祈っている。ありがとう。

元倉吉シネマクラブ会長:金沢瑞子(2012年4月6日付日本海新聞より転載)